1.ドゥテルテはなぜ、ミンダナオから米軍を追い出そうとしたのか
今回のマウティの戦いについてネットの声を拾っていると、次のような意見を多く見かけました。
ドゥテルテがミンダナオから米軍を追い出したために、ISがやって来て大変なことになった。そこでドゥテルテは米軍に泣きついた。
この手のTwitterが何万もネットにあふれました。
ドゥテルテ大統領が、ミンダナオに駐留を続ける米軍に対し、2016年9月12日にマニラのマラカニアン宮殿で行った演説にて「(米軍は)出て行かなくてはならない」と述べたことは事実です。
米軍がミンダナオに留まることにより、状況がさらに不安定化しているとの指摘もなされました。
しかし、その後も米軍はミンダナオに駐留を続けており、そもそも撤退はしていません。マラウィが占拠された際にも、米軍はミンダナオ島にしっかり留まっていました。
ですから、上記のネットの主張はまったくの事実誤認です。
1992年にフィリピンの基地から米軍が撤退し、その3年後に中国にミスチーフ環礁を占領されてしまった構図と今回のマウティの戦いは、けして同列では語れません。
ドゥテルテ大統領が米軍のミンダナオからの撤退を切望するのには、それなりの理由があります。米軍がミンダナオに駐留し続けること自体が、ミンダナオ和平にとっての障害になっている面があるからです。
今回のマウティの戦いに関する日本での報道にしても、「アブ・サヤフやマラウィグループは悪であり、それを退治する米軍は正義である」とする単純な構図が多く見受けられました。
しかし、必ずしもそうとは言い切れません。
2000年5月、フィリピンの上院議員が上院における演説にて「アブ・サヤフを訓練したのはCIAだ」と指摘し、注目されたことがあります。この指摘は当時、衝撃的に扱われましたが、今ではその実態はかなり明らかにされています。
事の発端は1979年に起きた、ソ連のアフガニスタン侵攻にさかのぼります。
アフガニスタンはイスラム教徒の国でした。このとき、宗教的異端者の国であるソ連が、イスラムの国を奪ったことに怒った一人の男が、世界中に檄(げき)を飛ばしました。
ジハードの父と呼ばれるアブドゥラ・ユスフ・アザムです。
「異端者が奪ったイスラム教徒の土地を取り戻そうとする闘いは、どこに住んでいるかに関わらず全てのイスラム教徒にとっての個人的な義務である」とするアザムの呼びかけに応じ、世界中からイスラム教徒がアフガニスタンに駆けつけました。
その際、世界中からイスラム教徒を募り、アフガニスタンに送り出したのは、アメリカの情報機関CIAが各地に設立したダミー会社や団体です。
CIAはフィリピンでも主としてミンダナオで兵士の募集を行い、千人を超えるムスリム青年をアフガニスタンに送り込んでいます。
彼らを駆り立てたのは、イスラムの同胞を共産主義から守るという義心です。それに加えて、月額100ドルから300ドルの給与が支給されることも魅力でした。
当時、ベトナム戦争による敗戦で痛手を被っていたアメリカには、米軍を直接アフガニスタンに送る余裕などありませんでした。そこで、米軍の代わりにソ連と戦う組織として、イスラム教徒を利用したのです。
ソ連軍がアフガニスタンから撤退するまでの10年に渡り、43カ国から3万5千人のムスリムの青年が集められました。
しかし、青年のほとんどは戦闘経験などない素人です。一から訓練を施し、屈強な戦士へと育てる必要がありました。訓練所を設け、彼らに訓練を施したのもアメリカCIAです。
フィリピンから渡った青年たちも、アメリカによる訓練を受けたのちに戦いに投入されました。
彼らを指揮したのはアフガニスタン出身のアブドル・ラスル・サヤフ教授です。帰国後にアブ・サヤフを立ち上げたアブドラク・ジャンジャラーニも、そのグループに配属されていました。
ちなみに「アブ・サヤフ」の名称は、彼らを指揮したサヤフ教授からとったものです。
アメリカが育てた戦士のなかには、サウジアラビアから参加していたオサマ・ビン・ラディンもいました。ジャンジャラーニらにとってオサマ・ビン・ラディンは、共にアフガニスタンで戦った戦友です。
ソ連軍の撤退を受けて、戦士として戦った青年たちはそれぞれの母国に帰っていきました。アメリカがソ連と戦うために青年たちに焚きつけたジハードの精神は、その後も彼らを引きつけ、イスラム世界から異教徒を追放し、イスラム法に基づく政府を樹立する運動へとつながっていきました。
そうなると目に余って見えてくるのは、イスラム世界の秩序を破壊しようとするアメリカ企業と政府高官との癒着(ゆちゃく)であり、異教徒の国であるアメリカによる許しがたい介入の数々です。彼らの怒りの矛先は、次第にアメリカに向かっていきました。
アメリカに育てられたビン・ラディンが、アメリカに刃向かい911テロを起こしたのも、そうした構図のなかに当てはめることができます。
その構図はフィリピンでも繰り返されました。ジャンジャラーニらアフガニスタンで、ビン・ラディンと共に戦ったムスリム青年たちが立ち上げた武装集団が、アブ・サヤフです。
つまり、ビン・ラディンがアメリカに育てられたように、アブ・サヤフを育てたのも実はアメリカなのです。
さらに言えば、アブ・サヤフの後ろに控えるISの主要構成員もまた、元を正せばアメリカが育てた存在です。
シリアのアサド政権を倒すために、シリア反体制派の武装勢力を訓練して戦わせる作戦を、アメリカ国防省は秘密裏に進めていました。
2012年2月、アメリカのニュースサイト『ワールド・ネット・デイリー』が、その実態をスクープしています。その記事によると、トルコとヨルダン北部の訓練基地において、アメリカ特殊部隊がシリアの反政府武装勢力を訓練していることが報じられています。
このとき米軍が訓練を施していたのは「イラクとシャームのイスラム国」のメンバーたちです。のちにISを打ち立てたのは、彼らです。
本旨と外れるため詳しくは書きませんが、イスラム国誕生のいきさつは、アメリカがアフガニスタンで冒した過ちを再現したものに他なりません。
すなわち、ソ連軍と戦わせるために集めて訓練を施した青年たちが、その後テロリストとなってアメリカに牙をむく図式です。
同じ図式はイラクのフセイン政権でも繰り返され、イスラム国でも繰り返されました。イスラム国を育てたのも、アブ・サヤフを育てたのも、その根源をたどればアメリカに行き着きます。
自国の利益だけを優先するその場限りのご都合主義が、現在の世界の混乱を招いたと言えるでしょう。
フィリピンに渦巻く反米の機運に加えて天災が重なり、1991年にアジア最大のアメリカ海軍基地であったスービックから米軍は撤退しました。
フィリピンからの米軍撤退は、フィリピンとアメリカの利益が一致したからこそ実現したことであり、なにもアメリカは意に反して出ていったわけではありません。
アメリカが撤退した最大の理由は、基地を維持するための費用の捻出がままならなかったためです。
しかし、米軍はミンダナオからは撤退しようとしませんでした。その背景には、地政学から見てミンダナオ島が中国を封じ込めるために極めて重要な地であることが指摘されています。
地政学
地理的な環境が国家に与える政治的・軍事的・経済的な影響を、巨視的な視点で研究する学問
つまり、ミンダナオに米軍が駐留し続けることは、アメリカの国益にかなうと言うことです。
しかし、もとは植民地とはいえ現在は独立国であるフィリピンに米軍が駐留を続けるためには、それなりの大義名分が必要になります。それにはアブ・サヤフなどの過激な反政府武装勢力の存在が好都合でした。
2001年の911以降、アメリカは国をあげて対テロ戦争へと突入しました。それにともないミンダナオのアブ・サヤフを国際テロ組織に指定し、アブ・サヤフ討伐のために500人規模の米軍特殊部隊を送り込みました。
ところが、当時のアブ・サヤフはテロリストとしての活動はしていたものの、その構成員はわずか100名ほどでしかなく、大がかりな軍を投入しなければいけない対象とは考えにくい弱小組織でした。
しかも、今回のマラウィの戦いでアブ・サヤフが主要な役割を果たしたことからもわかるように、米軍がいながら何年間もアブ・サヤフのような小さなテロ組織をつぶすことができなかったことも、奇妙な話です。
米軍がミンダナオに駐留するためには、アブ・サヤフが細々とでも存続していた方が都合が良いため、あえてつぶさなかったのではないかといった疑惑も一部にはくすぶっています。そうであるなら、アメリカはミンダナオ和平を望んでいないことになります。
ドゥテルテ大統領がミンダナオからの米軍の撤退を求めたのは、こうした水面下の事情がフィリピン国内にわだかまっていたからこそです。
2.ミンダナオ和平に向けたドゥテルテの戦い
ドゥテルテはフィリピン史上はじめて、ミンダナオ島出身の大統領になりました。それだけにミンダナオ和平にかける思いには、歴代大統領には見られない熱いものがあります。
ダバオ市長時代から、地元のイスラム勢力とも良好な関係を築いてきた実績もあります。「歴史の間違いを正し、任期中に必ず最終和平を実現する」と、折にふれて何度も口にしてきました。
ドゥテルテ政権が発足以来、全力で取り組んでいる麻薬撲滅戦争にしても、実はミンダナオ和平に大きく関係しています。
フィリピンから麻薬をなくすことが、ミンダナオで不穏な動きを続けているIS系武装勢力の資金源を絶つことにつながるからです。
今回のマラウィの戦いでも、国軍が奪還した武装勢力の拠点からは大量の麻薬が押収されています。マウテグループなどのIS系武装勢力が、麻薬取引を通して集めた資金で武器を購入し、軍備を整えていたことは明らかです。
麻薬による資金源を絶つことができれば、IS系武装勢力の力は自然に弱まります。つまり、麻薬撲滅戦争はミンダナオ和平に近づくための一歩でもあったわけです。
マラウィの戦いが終息したことを受け、ミンダナオ和平に向けて新たな局面を迎えることになりました。
バンサモロ自治政府の樹立に向けて、アキノ前大統領のときに可決できなかったバンサモロ基本法案をまとめることが急務とされています。さまざまな利害が対立することで揉めているバンサモロ基本法案を国会で通すためには、ドゥテルテ大統領が背負う高い支持率が大きくものを言います。
ところが、ドゥテルテ大統領にとって頭の痛い事態がこのところ起きています。10月に行われた民間調査会社の支持率調査において、ドゥテルテ大統領への支持率は就任以来もっとも低下してしまったのです。
ソーシャルウェザーステーションが行った世論調査では、前回6月の78%から67%へと11%も下降しています。
地域別の満足度では、ミンダナオ島で76%という高い支持率を維持しているものの、セブなどのビサヤ地区では43%、マニラ首都圏で68%、首都圏を抜かしたルソン島ではわずか22%の支持率しか得られていません。
6月の調査では過去最高の支持率を記録していただけに、わずか4ヶ月で急転直下したことになります。その直接の原因は、これまでドゥテルテ大統領を支えてきた貧困層からの支持率が急落したためです。
その背景として、麻薬撲滅戦争の犠牲者が貧困層に集中していること、そして貧困層を救済するための経済政策が進んでいないことに対する不満が募っているからだと指摘されています。
さらにドゥテルテ大統領にとってマイナスイメージとなったのは、長男が中国経由で麻薬を密輸する組織と関わっていたのではないかと疑われたことです。
長男はこれを否定しており、ドゥテルテ大統領は「息子の麻薬疑惑が事実なら容赦なく殺す」と拳を突き上げています。
また、現在ダバオ市長を務めている長女が次期大統領になるかもしれないと発言したことも、反ドゥテルテ側に何度も取り上げられたことで支持率を落とす原因になっているようです。
血族による汚職が原因で支持率を下げたフィリピン大統領は過去に何人もいます。今回の支持率急落は、そのときのパターンと似ているため、今後ドゥテルテ大統領の政治的な力が弱まるのではないかと危惧する声も上がっています。
一方ドゥテルテ政権側は、就任1年のいわゆるハネムーン期間が過ぎた以上、支持率が多少落ちるのは当たり前のことと、意に介さない姿勢を貫いています。
ハネムーン期間
近代の民主主義政治において、政権交代後の新政権の最初の100日間のことを指す。発足直後の新政権は一般的に高い支持率を示す傾向があり、新政権の最初の100日と国民・マスメディアの関係を新婚期(蜜月)の夫婦になぞらえて名付けられた。アメリカ合衆国では報道機関のみならず野党も、この100日間は新政権に対する批判や性急な評価を避ける紳士協定がある。
(wikipediaより引用)注)通常は新政権発足後の100日間を指しますが、フィリピン政府は意図的に就任から1年の期間をハネムーン期間になぞらえています。
キリスト教徒とイスラム教徒の利害が真っ向から対立するバンサモロ自治政府をめぐる攻防は、今後も紛糾することが予想されるだけに、双方から信頼される強いまとめ役が不可欠です。
その役割を果たせるのは今のところ、ドゥテルテ大統領以外考えられません。
過去に幾多の血を流してきたバンサモロの大地に真の和平をもたらし、キリスト教徒とイスラム教徒がミンダナオの地で共存共栄できる関係を築けるかどうかは、ドゥテルテ大統領の双肩にかかっています。
今回のマラウィの戦いにより、イスラム系武装勢力は戦闘員の7割を失ったと言われています。
そのため、当分は大がかりな戦闘は起こらないかもしれません。しかし、それは武装勢力が次の戦いのための兵力をそろえるまでの一時的な平和に過ぎません。
フィリピンは家族のつながりが強い社会です。イスラム系武装勢力を支えているのも、血縁関係にほかなりません。マウテ兄弟やその両親が武装勢力に身を投じたように、イスラム系武装勢力の系譜は血縁関係を基にしています。
父が倒れたなら、その子が銃をとり、兄が倒れたなら、その弟が銃をとります。そこには大義とは別に、血縁に基づく憎悪と復讐の連鎖が横たわっています。
ドゥテルテ大統領に課せられているのは、バンサモロの地に受け継がれている憎悪と復讐の連鎖を絶ち、それを友愛と連帯に置き換えることです。
そのためには単に武力を抑えるだけではなく、ムスリムの人々が武力を使ってまで変えたいと願う現在の不平等な構造を正していく必要があります。
ムスリムの人々が不平等を感じる根源には、その日の食をつなぐのがやっとなほどの切羽詰まった貧困があります。
ただでさえ貧富の激しいフィリピンのなかでも、ミンダナオに暮らすムスリムの人々の貧困は際立っています。長引く紛争が、フィリピンのなかでミンダナオをもっとも貧しい地域に追いやりました。
インフラ整備は行き届かず、道路の大半は未舗装のままです。電気さえ通っていない村も、かなりあります。
紛争のなかで住居を失った国内難民や孤児が増え続けるなか、政府からムスリムの人々に向ける支援は消極的で頼りになりません。現在のところ、困窮したムスリムの人々のセーフティネットになっているのは、モロ・イスラム解放戦線による社会福祉的活動です。
こうした現状こそが政府への不信感を募らせ、ムスリムの人々を過激な思想へと走らせる温床になっています。
ミンダナオの貧困を解消するために、政府自らの手でセーフティネットを整える取り組みが、今こそ求められています。
ミンダナオの大地におよそ500年に渡って繰り返されてきた悲劇に幕を下ろすことは、簡単なことではありません。しかし、ミンダナオ出身のドゥテルテ大統領であれば「もしかしたら」という期待を、多くの人々が抱いています。
果たしてドゥテルテ大統領がバンサモロの地に平和に満ちた夜明けをもたらすことができるのかどうか、いま世界中から注目されています。