あの、突然はじめまして。
「モトボサツ勝手にブログセブ島編」というブログを書いてますモトボサツと言います。
たまに適当な事書いてる俺のセブ島留学サイトに、「セブ」そして「フィリピン留学」の真実を投稿してやりたいと思っていましたが、なかなかきっかけが無かったとです・・・
このたび“ホテル留学KGA”のマーケティングの仕事を頂き、やっと念願の俺のセブ島留学デビューを果たすことが出来ました。
ってなわけで、とりあえず自己紹介から簡単にさせて頂きます。
けして孤独を愛している訳じゃないのに、周りの人から強制的にそんなキャラに持って行かれ、引っ込みがつかなくなりました・・・
本当はわりと人懐っこく、食べ物とかに弱いです。
血液型は義理堅いAB型!
そして大事なポイントはバツイチ。
フィリピンはバツイチ天国と呼ばれるように世界中からバツイチの男女が流れ着きます。
名刺にバツイチって書く事で一気に距離が近くなることが多いのです。
現在3足の草鞋を履いて何とか頑張ってセブ島で仕事をしております。
日常生活はビサヤ語、タガログ語で仕事は基本的に英語です。
元々は粛々とセブでカナダの保険会社の代理店をしておりましたが突然降って湧いたようにいきなり大学で日本語の先生をやることになりました。
エアコンの無い灼熱な教室で数十名のフィリピン人大学生を相手に七転八倒の日々。
ある時福岡県の古刹として有名な髄石寺の和尚さんに言われました。「あんたはもうボサツじゃけー」。しかし、ご存知の様にピリピンで菩薩なんて暢気な事やってられません。せめてモトボサツ(元菩薩)を名乗ることでボサツの名残が残せたら幸いです・・
2013年からモトボサツブログを書き始め、今回縁あってKGAからマーケティングスタッフとしてお仕事頂いた次第です。
9年前にセブへ流れ着きました。。。
だから語学留学等目的をもって渡比する人を見て偉いなと思います。
今振り返ると私は日本で失った自分の居場所を探していた気がします。
自分探しは自分の居場所探し。
日本でバツイチになった後、もう日本人女性とはきっと縁が無いと悟り込み、外国人としか付き合わないポリシーにしました。
そして日本に住むフィリピン人女性と知り合い付き合ったのが最初の入口でした。
その辺を書き出すと超長くなるので、良かったらコチラをご参照ください。
▶ フィリピーナを選んでしまった理由
初めてのフィリピン&セブでしたが、上陸したその日にいきなり山奥へ連れて行かれました。
100年前に出来たダムが近くにありました。
建設当時は日本人が出稼ぎに来ていたそうです。
◎参考記事:落ちぶれた貴族
ジャングルへ向かう途中、麓のジョリビーで親戚の子供用にハンバーガーを買うと言ってピットイン。
一瞬100個買うと聞こえましたがそれは本当でした。
デコボコの山道を登り集落へ到着するとチビクロサンボ達がワーっと駆け寄ってきました。
アテ(お姉さん)が懐かしいというよりお土産が目当てです。
分かり易くシンプルな国だと思いました。
子供の全裸率90%。
首の無いニワトリが井戸端に並べられ、その横で水浴びをします。
シメられるブタの断末魔の声が毎日響き渡り、村人達は私の一挙一動をじーっと観察していました。
私の想像の中のフィリピンとあまり変わりませんでした。
当時私には5歳の娘が居ましたが、別れた嫁に話し合いも無く連れて行かれ、心が張り裂けそうに切ない日々を過ごしていました。
多少ワイルドですが、自分の娘と同じ位の歳の子たちがワンサカ居る光景。
「ここなら寂しくなかばい」
暫くここに住みたいと彼女に何となく言ってしまいました。
すると、鍵を渡されました。
「ワタシワ シグトアルダカラ、ニホンカエルケド、アナタココイテイイヨ💛」
今考えると、私と彼女は生まれた場所を完全に交換しました。
▶ぜひコチラをご参照されてください
「イチネンニ イッカイダケ カエルダカラ ウワキシタラ チ〇チ〇 キルヨ」
下世話な話であれですが、実際フィリピンでは頻繁に起きる悲劇です。
一端日本へ戻り、荷物を整理して、全財産をスーツケース二つだけに絞り、セブへ上陸しました。
当時38歳、キックボクサーあがりで、体だけ無駄に強い状態でした。
言語能力限りなくゼロ。
全部ガギグゲゴにしか聞こえない状態で、身体的強さだけを頼りに純粋に生物として生き抜こうと腹を括りました。
体力が落ちたら終わりだと思い、朝5時から30分かけ山を駆け下り、ジョリビーを折り返し地点にヒルクライム。
おそらく御利益があると思ってジョギング中の私に果物を差し出すフィリピン人も居ました。
ジャングル地区にも小学校がありました。
それからその辺の不登校の子供を連れて学校へ行く係りを得ました。
異次元コミュニティーへの参加第一歩です。
フィリピンのジャングル小学校は超適当で、ぜひ授業を受けて行きなさいと入学を勧めてくれました。
私の席は一番後ろの真ん中。
子供達の言葉は基本的にサバイバル用語。
私がどうやってビサヤ語を話せるようになったか整理してみると次の様になります。
2 子供の声を真似して発音してみる。
3 子供達の行動パターンと言語が統計的に結びつき、意味が経験的に分かるようになる。
そうやって子供が使うサバイバル用語をどんどん蓄積して行きました。
たまに即席で日本語を教えたことがありますが、外国人に日本語を教える事は、非常に外国語の習得に役に立つことがわかりました。
なぜなら日本語と外国語の違いを比較する必要が出てくるからです。
日本人がなぜ英語が苦手なのか?
そこで初めて見えて来るも物があります。
その辺は後日またシェアさせて頂けたら幸いです。
小学校は午前だけで引き揚げ、午後からサリサリストアと呼ばれるミニコンビニを民家の軒下で始めました。
ジャングルで完全ワンオペ。
すき家のワンオペ問題どころではありません。(ワンオペとは一人で掃除、接客、調理、会計迄すべて完結させる日本が生んだ孤独で最強な戦士システム。すき家やかつての佐川急便が有名。)
学校で覚えた言葉を実践でアウトプット。
午後からのサリサリ店番はハイパーに言語能力が向上しました。
今考えるとビサヤ語のワイルド語学留学をしていたようなもんです。
賑やかで自由なジャングル生活ですっかり日本の切なさを忘れることができ、別人として人生リセットできた気がします。
日本の38年間の叡智を集結しビサヤ語を1から毎日コツコツと覚え積み上げた経験とアイデアは後の英会話習得へハイパーブーストをかける事になります。
ちなみにビサヤ語にはスペイン語が沢山使われています。
我々日本人の事はハポンまたはハポネーサ。
未だにスペイン語のまま使われています。
時間は全てスペイン語。
テーブル等のアイテム名もスペイン語が多いです。
スペインがやって来るまで無かった概念や物はスペイン語のまま未だに使われているようです。
お蔭でスペイン語会話を始めたとしたらビサヤ語が大きなアドバンテージになると思います。
昔、5か国語6か国語話せる人を見て、ド変態だと思っていましたが、自分流の習得方法が確立されると、体力の続く限り、何か国語でもイケる気がします。
英語を習得する事で、次の扉が開けます。
英語学習は単なる英語学習ではない。
これだけは自らの経験で確信を持って言えます。
フィリピンは英語が公用語で、普通に考えたら英語さえきちんと話せれば日常会話はおろかビジネスも可です。
しかし、私の場合要領が悪かったので38歳からタガログ語、ビサヤ語を突然覚えはじめ、40歳から英会話の練習という非常に遠回りをしてしまいました。
結果的に日本語含めて4つの言葉を話しながら生活しています。
無駄に培った経験をここで披露することで無駄が無駄でなくなることを信じてやみません。
2015年12月19日 草々
モトボサツ