成功を収めたフィリピン人起業家は大勢存在しますが、ここではフィリピン経済へ継続的かつポジティブに貢献しているビジネスを経営する企業家を、10名までに絞って紹介しましょう。
*こちらの記事は翻訳記事を編集したものです。
翻訳元:http://www.brighthub.com/office/entrepreneurs/
フィリピン人と民族ごとのグループ
フィリピンは日本と同じ島国です。7,017の群島に、様々な民族と文化が融合することでフィリピンの人々が暮らしています。
彼らは一般的にはフィリピン人と総称されますが、そのなかの一部にはアメリカ系フィリピン人やスペイン系フィリピン人・日系フィリピン人・イスラム系フィリピン人・中国系フィリピン人も含まれます。
こうした民族ごとのグループのルーツをさかのぼると、フィリピンの歴史上いずれかの時点において、主にマレー系フィリピン人(原住人)に対して優位に立ち、影響を与えた祖先たちにたどり着きます。
つまり、戦争に勝ちフィリピンを植民地化した宗主国の人々、あるいは植民地化政策の一環により経済的優位に立った祖先という意味です。
中華系フィリピン人の台頭
これらのなかで最も目立っているのは、中国系の祖先をもつグループです。なぜなら中国系フィリピン人は、何世代にも渡ってフィリピン現地の人々に仕事を提供してきた様々なビジネスマンたちだったからです。
以下でその代表的なフィリピン起業家を紹介します。
- Henry Sy – ShoeMart(SM) Department Stores(アジア最大のモール)
- Tony Tan Caktiong – Jolliibee Foods Corporation(主にファーストフード)
- Cecilio M. Pedro – Lamoiyan Corporation(歯磨き粉チューブなど)
- Alfredo M. Yao – Zest-O Corporation(フルーツジュース)
- Soccoro C. Ramos – National Bookstore(本屋)
- Mariano Que/Vivian Que Azcona – Mercury Drug Stores(ドラッグストア)
- Corazon D. Ong – CDO Foodsphere(加工肉会社)
- Engineer Gregorio G. Sanchez Jr. – LactoPAFI(プロバイオティクス製品)
- Ernest L. Cu – SPI Technologies – eTelecare International, Inc.(外注サービス提供社)
- Diosdado Banatao-Computer Chips – Mostron and S3(テクノロジー会社&投資家)
1. Henry Sy – ShoeMart
アジア最大のモールのオーナー
「一晩で成し遂げる成功や簡単に稼げるお金など存在しない。失敗しても気力を削がれることなく、再びトライするのだ。」
うまくやり遂げたとしても自分のやり方を変えてはならない。成功は運の良さのみで手にいれるものではなく、努力・他者からの信頼・チャンス・準備万端整えること、そしてタイミングのすべてが組み合わさることで初めて手にできるものだ。
一度手にした成功も、そのメンテナンスを常に続けなければ、いずれは失われる。」 – Henry Sy, Sr.
生い立ち
Shī ZhìChéng (ヘンリ―の中国名)は1923年12月25日に中国・シアムン近郊の町、チンチャンの貧しい家に生まれました。
1936年に彼の一家全員は、当時マニラで繁盛していた雑貨店の経営者であった家父長の傍で暮らすため、中国を後にしました。ヘンリーは父親が切り盛りする店を12時間手伝ったあとで店のカウンターを片付け、その上を自分の寝場所にしていたことを記憶しています。
不幸なことに第二次世界大戦が勃発し、彼の家族の店は焼け落ちてしまいました。しかし戦争の余波を受けて、ヘンリ―は戦後さまざまな品(進取的なG.I. Joesの靴を含む)を売買することでお金を稼ぐチャンスをつかんだのです。
靴の行商ビジネスの成功は後に、中国・チンチャン出身のこの青年に彼自身の靴屋を開業するアイデアを授けました。
小さな靴屋
このようにしてヘンリー・Sy, Sr.は、「SM」の名で知られるフィリピン最大の小売会社の創業者となったのです。「SM」はシュー・マートの頭字語であり、1958年に戦後期のマニラでもっとも人気の高い商業地区であった「アベニダ」で、彼が開いた小さな靴屋の名前です。
しかしながら当初は、この若きビジネスマンが販売しようとアイデアを温めている靴づくりに協力してくれる地元の靴製造業者を探すことは、できませんでした。でも彼はあきらめませんでした。
彼は自身のプランをあくまでも追及しようと固く決めており、なおかつ自信ももっていました。
なぜならそのプランは、彼自身の研究に基づいていたからです。ヘンリーは継続的に自身の顧客、従業員、そして卸売業者から学び、フィリピン市場において増しているニーズを実用的に研究していました。
こうしてヘンリーはフィリピンの人々のニーズを先取りすることで、靴ビジネスの事業に成功を収めました。しかし、それでもなお自分の目標を見失うことはありませんでした。教育こそは収入を増やすための気づきを与えてくれる場と考えたヘンリーは、マニラのトップ大学の一校を卒業しました。
大型ショッピングモールへ成長
50年以上経ち、現在彼の靴屋はフィリピンのみならずアジア全体、44ヵ所の大型ショッピングモールのネットワークにまで進化しました。
そのうち3つは、世界的ショッピングセンターのトップ10入りを果たしています。SM City-North EDSA (ランク3位)、 the SM Mall of Asia (ランク4位) 、そしてSM MegaMall (ランク7位)の3つです。これら3つのモールは、すべてフィリピン国内にあるものです。
これらのショッピングモールの店舗は、経営戦略の一環として国中に散在しています。利用客の社会的地位は問わず、家族連れが週末に遊びに行く目的地として、今日では典型的なショッピングモールになっています。
SM基金の設立
ヘンリーSy, Sr.はフォーブス2010年版において、フィリピンでもっとも裕福な男性のリストに名を連ねました。(参照:億万長者は誰だ!? フィリピン人お金持ちトップ10ランキング2015)
なお、2009年には著名な雑誌で、フィリピンの慈善活動に従事するヒーローの1人として讃えられています。
SM基金を通して健康・教育・精神的な支援が、辺ぴな地域で暮らす人々にまで届くようになりました。具体的には移動診療・歯科クリニック、奨学金制度、そして公立学校、カソリック・チャペル、青少年センターの建設という形で実現されました。
2. Tony Tan Caktiong – Jollibee
ジョリビー含めた多数の飲食店のオーナー
「27年前、私たちはNo.1になる確固たるビジョンは持ち合わせていませんでしたが、フィリピンから外の世界へ出るのだという粗削りのビジョンはありました。
また、私たちには目標がありました。それは私たちの顧客、従業員のケアを常に行い、自分たちが今やっていることを楽しむ、ということです。これらのことがすべて実現したときにこそ、利益は生み出されます。」-Tony Tan Caktiong
生い立ち
Tony Tan Caktiongは1960年10月7日に、中国・福建省の労働階級の家庭に生まれました。一家は第二次世界大戦後にフィリピンに移住しました。トニーの父親が、マニラの中心街の仏教寺院で料理人の仕事を見つけたからです。
トニーの父親は料理人として家族の生活を支えるとともに、自分自身の中華料理レストランを開業するために、生活を切り詰めて貯金に励みました。父親の努力と忍耐力のお蔭で、Tony Tan Caktiongはフィリピン最古の4年制大学であるSto.Tomas大学で科学工学の学位を取ることができたのです。
アイスクリーム屋からのスタート
1975年にトニーは、かつて有名だったマグノリアのアイスクリーム・ハウスからアイスクリームパーラーのフランチャイズを買収し、飲食店業界へ参入しました。このパーラーは、やや高価ながら器用に混ぜ合わされたコブラ―・フロート・ミルクシェーク・バナナスプリット・サンデー・パフェを買う余裕のある、クバオ在住の富裕層のショッピング客を主に対象とした、小規模で特徴のないものでした。
しかし彼の常連客のほとんどはアイスクリームを混ぜ合わせたデザートの他に、もっと小腹のたまるメニューをパーラーに望みました。そこで、この小さな特徴のなかった店は、サンドイッチ・フライドポテト・フライドチキンの提供をはじめました。
これにより、疲れてお腹を空かした他のショッピング客、映画館の入場客、通行人の注目も集められるようになったのです。当時「ファーストフード」という言葉はまだ存在していませんでしたが、この小さな店がお手頃価格で提供したメニューは、今でいうファーストフード店とまさに同じものでした。
その後すぐに店は客であふれかえるようになりました。トニーのパーラーにやって来る客は、注文するために自分の番を辛抱強く待つことを苦にしませんでした。
1978年までにトニーは、メトロ・マニラ周辺にさらに6店舗のアイスクリームパーラーをオープンさせました。しかし、アイスクリームはすでに店の目玉商品ではありませんでした。
トニーはこの店舗を作るにあたり、アメリカで急成長中のフードチェーン店、マクドナルドからインスピレーションを得ました。トニーと家族は、アイスクリームパーラーをファーストフードの直販店に転換することを決意したのです。
ジョリビーの由来とその後の急成長
トニーと家族は店舗のユニークな名前とシンボルを考えることで、この新しい冒険に富んだ事業の戦略を練りました。トニーは個人的に、ハチミツ(彼の場合はお金)を生み出す蜂として忙しく働くことに幸福感を見出していたので、彼と家族は「働き蜂」のコンセプトで商売をすることを決意したのです。
トニーらは快活な笑顔を浮かべる赤と黄色の大きな蜂のシンボルを作り出し、これを「ジョリービー」と名付けました。
こうして、かつては変哲のないアイスクリーム・キオスクであった店舗は、ジョリービー・フード社となるまでに成長しました。ジョリービー・フード社は、1981年にファーストフードチェーン店・マクドナルドがフィリピン進出を果たした際も、びくともしませんでした。
ジョリービーは何ら痛手を負うこともなく、1989年に10億ペソの売上高を突破したフィリピン初のフードチェーン店となりました。そしてジョリービーが、キャピタライゼーション・ファンドが投入され始めたフィリピン証券取引所のリストに加わった初のフードサービス会社となった際に、世界進出のための土台が整えられました。
その後の経緯は皆さんご存知の通りです。
今日、これらのファーストフード・チェーンは、世界中で知られるようになったジョリービーのトレードネームとともに、世界のさまざまな場所で展開されています。
ジョリービー基金の設立
トニーの管理能力とリーダーシップは、フィリピン・ローカルの賞授与団体のみならず「World Entrepreneur Award in 2004, in Monte Carlo, Monaco」にも表彰されています。トニーは著名な賞を授与された初のフィリピン人起業家です。
その見返りとして、会社の社会的責任に具体的に対応するためのジョリービー基金が2005年に設立されました。この基金は、教育・住居・リーダーシップや社会の発展・環境保護・災害問題に関することで悲惨な事態が発生した際に、従業員たちとコミュニティーに対して全国的規模で支援を行うものです。
3. Cecilio K. Pedro – Lamoiyan Corporation
フィリピンで最も有名な歯磨き粉チューブのオーナー
「多国籍企業を相手に戦うことには大変な困難を伴いました。当初は誰もが私のことをクレイジーだと考えました。
彼らは私に尋ねました『どうやって切り抜けるつもりなのだ?』と。20年経った今でも私が未だに歯磨き粉業界にいられるのは、実に神の恩寵によるものです。神様は慈悲深いお方です。」
– Cecilio K. Pedro
生い立ち
Cecilio K. Pedroもまた中国系の祖先をもつフィリピン人ビジネスマンですが、彼の物語は典型的な「卑賤から身を起こした」ストーリ―ではなく、逆境を勝利に転換したストーリーです。
彼はフィリピンでもっとも著名な私立学校のひとつであるAteneo de Manila大学で、経営学の学位を取得しました。
Colgate-Palmolive、Procter and Gamble、およびthe Philippine Refining Company (現在のユニリバー)の地元の製造業者によって以前使用されていた、折り畳み式アルミニウム製歯磨き粉チューブの大きな卸売業者であったAluminum Container, Incで、彼はかつて代表を務めていました。
しかし、技術の革新とアルミニウム原料に関しての環境への懸念は、多国籍企業に代替品としてプラスチックのラミネート加工された歯磨き粉チューブの使用を促しました。その結果、Cecilioのアルミニウム工場は1985年に店舗を閉鎖しました。
しかし、彼はこんなことではへこたれませんでした。工場の設備を活かすための他の方法を、探しはじめたのです。
多国籍大企業への挑戦!
Cecilio K Pedroは、地元での歯磨き粉の製造によって多国籍大企業と競争すること、そしてそのために、多国籍企業の一番の弱点である販売価格を突くことを決意しました。
彼はLamoiyan社を設立しました。Lamoiyan社は後に、地元で製造された初の歯磨き粉「Hapee」と「Kutitap」 (sparkle)の製造業者となりました。それらはフィリピン市場において知名度の高い海外ブランドの販売価格の、半額で販売されたのです。
多国籍企業のColgateは、自社製品の歯磨き粉の販売価格を元の価格より20%下げることによって対抗しましたが、そのときにはCecilio Pedroはまた別の斬新なアイディアをひねり出していました。
口に入れたときに感じる香りと風味に特徴のあるフレイバーな歯磨き粉を、彼は子供向けに開発したのです。この製品は「セサミストリート」のキャラクターで飾られた華やかなチューブと箱にパッケージングされて、販売されました。この商品のヒットにより、彼は地元の市場においてさらなる競争力を得たのです。
現在、このお手頃価格の歯磨き粉ブランドの市場は、中国・ベトナム・インドネシア等の近隣諸国にまで拡大しています。
しかしながら、Lamoiyan社の成功の頂点を極めるための戦略は、低価格の歯磨き粉だけではありませんでした。
社会への奉仕に向けた取り組み
Lamoiyan社は、国内の聴覚障害をもつコミュニティメンバーに対して就業の機会を提供したのです。「Most Outstanding Program for Equal Employment Opportunity」(公平な雇用機会のための最も優れたプログラム)を設けたことにより、Lamoiyan社は賞賛されることになりました。
Lamoiyanの雇用プログラムには、30人以上のろうあ者スタッフに無料で住居を提供すること、そして会社のマネージャーになるためは、聴覚障害をもつスタッフとコミュニケーションをとるために手話を習得することを必須条件とすることが、含まれています。
Lamoiyan社創立以来、約180人のろうあ者の学生が、D.E.A.F.(Deaf Evangelistic Alliance Foundationの略)を通して無料で大学教育を受けることができました。D.E.A.F.とは、Cecilio K. Pedroが設立して議長を務め、フィリピン政府の教育文化省から正式に承認された組織です。
Cecilio K. Pedroは、彼の会社と社会的な業績を認められ、Technological University of the Philippinesから、テクノロジー・マネジメントにおける名誉を記念するDoctor of Philosophy(哲学の博士)を授与されました。
Pedro博士は、彼自身の信念を会社の企業モットーに深く反映させました。
「神の栄光のために、社会に影響を与える」。
4. Alfredo Yao – Zest-O Corporation
フルーツジュースとZest Airのオーナー
「Zest-Oが設立されたとき、唯一でありながら価値あるミッションがありました。それは、世界共通のものさしを凌駕する、消費者への価値と品質をもつ製品の提供です。」
– Alfredo Yao
生い立ち
Alfredo Yaoのストーリーは、努力と決意によって貧困からはい上がり自力で出世した、もう一つの「卑賤より身を起こした」物語です。
12歳のときに父親が亡くなり、彼は人生の辛い現実にぶつかりました。母親はAlfredoと他の5人の兄弟姉妹を、露天商の仕事による収入で養いました。
親戚の助けを借りて、彼は小学校から高校までの教育を終えることができました。しかし彼は、包装会社の倉庫で雑用の仕事をしながら通ったMapua Institute of Technologyで、大学教育を終えることはできませんでした。
パッケージングから製品の製造へ
Alfredo Yaoは印刷機を用いて仕事をする従兄弟を通じて、キャンディーやビスケットのセロファン包装紙を印刷するコツを習得し、印刷機ビジネスの経営に足を踏み入れました。このビジネスは約20年間繁盛し、やがてAlfredo Yaoは当時のヨーロッパで最新のパッケージング技術「ドイパック」のポテンシャルを見出しました。
当初Alfredoはこの「ドイパック」のパッケージングを、地元のジュース製造業者に提供するつもりでしたが、誰もこのオファーを受け入れる業者はいなかったため、彼自身がジュース製造業のビジネスに足を踏み入れたのです。
1980年に、Alfredo Yaoはフルーツジュースの混合を彼自身のキッチンではじめ、同年にはZest-Oオレンジドリンクを発売しました。
軽いながらもきっちりとパックされているオレンジドリンクを、子供たちのランチボックスに入れるだけのお手頃さと実用性がすべての母親たちに受け、このドリンクは即座にヒット商品となりました。子供たちは冷えたフルーツドリンクが、おやつの時間まで冷たくフレッシュなまま保たれていることをとても喜びました。
今日、Zest-Oドリンクは12種類あり、フルーツジュースのマーケット・シェアの80%を占めています。ビジネスは中国・オーストラリア・ニュージーランド・韓国・シンガポール・米国・ヨーロッパに進出しています。
そして州の、とりわけフィリピン原産のオレンジ「ダランダン」の果実生産業を活性化させることにも、一役買っています。今ではドイパックは地元の家内工業によってハンドバックにリサイクルされ、外国へ輸出されています。
その他のインスタント食品や下ごしらえのされている食品を製造することによってビジネスを拡張させる以外にも、Zest-0社は現在、かつてのAsian Spirit航空の経営を担っています。最高経営責任者であるAlfredo Yaoは、Asian Spirit航空をZest Airと名称変更しました。
5. Soccoro C. Ramos – National Bookstore
フィリピン最大の書店チェーン店のオーナー
「ビジネスの流れに適応する必要があります。どのような変化をも受け入れることができるようにならない限り、あなたのビジネスは前進しません。」– Socorro Ramos
生い立ち
フィリピン最大の書店チェーン「National Book Store」は、すべての種類の本のみならず、グリーティングカード・事務用備品・工芸品の材料も販売しています。
この「National Book Store」の女性リーダーのSocorro Cancioは、1923年9月23日にラグナのSta. Cruzで生まれました。
Socorroの母親は彼女が10歳のとき、彼女と兄姉たちをマニラに連れて行きました。彼女の姉たちはキャンディーとバブルガム工場で働き、家計を助けました。
しかし少女は夏の間、捨てられたタバコの紙をリサイクル目的で剥く雑用の仕事を得て、1パックあたり5センタボの報酬を得ました。
18歳のとき彼女の兄は、マニラで設立されている書店経営者の娘と結婚し、それによって彼女はそのうちの1つの売店で売り子としての仕事を得ました。そこでSocorroは書店経営一家の息子であるJoseと出会い、二人は結婚を決意したのです。
しかし、彼女の両親は2人の関係を許しませんでした。Socorroの兄とJoseは義兄弟という関係であったため、SocorroとJoseの恋愛関係は不適切なものと考えられたのです。
少女は恋愛関係を断ち切るため、ラグナに送り返されました。しかし、意志の固いSocorroは自らマニラに戻り、Joseと結婚したのです。
若いカップルは彼らの両親の怒りを、ものともしませんでした。Socorroに第一子と第二子である双子が生まれたときに、両親の怒りもようやく消え去りました。
書店としての差別化
Joseは彼の家族の書店の支店を受け継ぎ、Socorroと彼はそれを「National Book Store」という名前に変更しました。運命が彼らに立ちはだかるかのごとく第二次世界大戦が勃発し、日本軍による侵略が本格化すると、彼らのほとんどの本の販売は禁止されました。彼らは占領軍により、いかがわしい人物と見なされていたのです。
戦争は勢いを増し、日本帝国陸軍を撤退させるためにアメリカによってマニラは、アメリカ軍の空爆を認められた市として宣言されました。アメリカ空軍の爆撃により、彼らの書店は破壊されました。
戦後、夫婦は彼らのNational Book Storeを「Avenida」に移転しました。すると、すぐに彼らのビジネスは持ち直したのです。
3年後、彼らの店舗の屋根が台風によってはぎ取られ、商品がすべて売り物にならなくなってしまいました。しかし夫婦はあきらめることなく、再びゼロからのやり直しを図ったのです。
今回は、彼らはより明確な目標をもっていました。ビジネスから上がるすべての収益は、一番はじめにNational Book Storeが開業した9階建のビルへの支払いに使われました。
彼らの書店は、他の書店と大きく違っていました。自らが直接実務に携わり、地元および海外の出版社・卸売業者と直接交渉するSocorro Ramosの手法は、彼らの書店が「安く仕入れて安く販売する」ことを可能にしたのです。
社会奉仕の実践
彼女は世の中の移り変わりに関する情報を提供してくれる著者と読書愛好家、その他さまざまな人々と知り合いました。数十年後、National Book Storeは国内のあらゆる場所に108軒の支店をもつ書店にまで発展しました。
会社の基金を通じ、彼らはさまざまなコミュニティにおいて充分なサービスを受けていないセクターに対し、移動図書館という方法で支援を行いました。これにより、さまざまな社会市民寄付プログラムのための本と学用品が提供されました。
6. Mariano Que – Mercury Drugstore
フィリピンで最大規模のドラッグストアのオーナー
背景
元々、Mariano Queは戦前期のドラッグストアの従業員として働いていましたが、ほとんどの典型的な成功を収めた起業家と同様、Queは戦後期、アメリカによる占領期間中にチャンスをつかみ取りました。
戦前にあった施設の破壊により、誰もがゼロからの立て直しを余儀なくされました。そのなかでも人々のニーズに対して広い見識をもつ者が、頭角を現しました。
フィリピン国内の薬局のほとんどは、経営していけるだけの十分な資金をもっていませんでした。そのため、サルファ剤の需要が高いにもかかわらず、どの薬局もサルファ剤を満足に提供できていなかったのです。
そこでMarianoは、薬局に代わってサルファ剤を行商して回ることを思いつきます。しかし、Marianoにも十分な資金はありませんでした。
小分けして薬を行商
そこでMarianoは、戦前のドラッグストア従業員としての経験を活かし、まずは100ペソ分のスルファチアゾール錠剤に投資しました。そして、貧困に喘ぐセクターにも手が届くように、一回あたりの投与分に小分けして行商したのです。
彼は木製の手押し車を作成するのに十分な資金が貯まるまで、スルファチアゾール錠剤の小分け売りを繰り越しました。こうして彼は次第に販売する薬品を増やしていき、より様々な医薬製品の詰め合わせを行商できるようになったのです。
他の行商人たちも彼のマーケティング・販売戦略を真似しましたが、Marianoのやり方はいつも他者との違いがありました。彼は品質が高く、消費期限の切れていない医薬製品のみを販売したのです。
これによりMarianoは、周囲から高い評判を得ることになりました。ほどなくしてMarianoのもとには、安定的な常連客がつくようになったのです。
Mercury Drug の設立
1945年までにMarianoは十分な資金を貯め、それによって最初の店舗を構えました。彼はこの店舗を「Mercury Drug」と名付けました。ローマの神であるマーキュリーが使者のつえを抱えているシンボルは、医学と大きく関連性があったのです。
店舗の設立にも関わらず、Marianoは従来からの大切な顧客に薬品配達サービスを提供する目的で、モーター車に投資をしました。
Marianoはまた、薬剤へのニーズは予測せず突然やってくる可能性があることを認識していたため、店の営業時間を1日17時間、週7日まで拡張しました。1952年に店舗は1日24時間週7日営業するようになり、これによって彼のドラッグストアはコミュニティにおける貴重な存在となったのです。
1960年にAyala Group of Companiesが、ちょうどこれからマカティの中心部に開発されるショッピングセンターのなかのスペースを貸すことをMariano Queに打診しました。Marianoはこの申し入れを受け入れ、セルフサービス式の薬局として2件目のMercuryドラッグをオープンさせたのです。
これ以降はコンピューターによるガイダンスのコントロールや生物学的な冷蔵庫等、さらなる革新とテクノロジー導入が行われました。これらの進歩によって彼のドラッグストアは最先端をゆく、生命を救う医薬品全般を取り扱うところまで発展しました。
現在ある新しい支店は、薬に留まらず食料品・生活用品・健康と美容商品等の消費財も取り扱うスーパーストアになっています。
目標達成後に利益を社会に還元
Mercuryドラッグは、すべてのフィリピン家庭が頼りとする評判を築き上げました。そして国中のほとんどすべての町と市に店舗を構えました。現在はフィリピン国内に約700店舗のMercuryストアがあり、そのうちの何軒かはフランチャイズに加盟しています。
これらにより、「安全な医薬品をすべてのフィリピンのコミュニティに対して利用可能、入手可能にする」というMarianoによって当初に掲げられた目標が果たされました。現在、Marianoの娘のVivian Que Azconaが、彼の会社のビジョンとミッションを引き続き掲げています。
彼らを信頼してくれる人々へのお返しとして、Mercuryドラッグは毎年恒例の記念日を、貧困層に対して外来診療所を無料提供し、彼らの病に対して適切な医薬品をも無料提供することによって祝っています。
7. Corazon D. Ong – CDO Foodsphere,Inc.
加工肉会社のオーナー
背景
Corazon D. Ongはプロの栄養士であり、その知識をお手頃価格の加工肉製品の製造に活用しました。この加工肉製品は、すでに名の通った加工肉ブランドと肩を並べるものです。
当初は料理アートに、彼女のもつ創作力とスキルを活用できる趣味にすぎませんでした。しかし、やがて彼女はコーンビーフ、ホットドッグ、ミートローフ、ハンバーガー・パティ、ハムを編み出し、この事業を後にホームビジネスとして販売したのです。
世界に広がるCDO製品
彼女は1975年にCDO Foodsphereを創立しました。製品のお手頃価格と品質に関する評判が世界中に広がるにつれて、CDO製品への需要も同じように増えました。
クリエイティブな主婦として彼女は、すべての母親の間に、サッと迅速に準備できる子供用ランチへのニーズがあることに気がついていました。利便性が図られており、なおかつお手頃価格で提供される必要があることも知っていました。
Corazonはまた、フィリピン人の子供の味の好みも理解していました。しかし、Corazonの製品が高い評価を受けているのは味覚だけではありません。
信頼される理由とは?
Corazonの製品には、食の安全と栄養学に基づいた成分が厳選されているため、他の製品と比べると圧倒的に健康に配慮されているのです。このことはCorazonの製品に、競合他社の製品よりも大きな優位性を与えています。
今日、CDO FoodsphereはPizza Hut、KFC、Taco Bell、Long John Silverを含むglobal Quick Service Restaurants (QSR)の有名な運営者であるYum! Restaurant Internationalの肉トッピングの卸売業者として高く評価されています。地元ではCDOは、フィリピン国内で運営している全部で10のQSRのうち9に対して肉トッピングを供給しています。
CDO製品に対する大きな需要は、これまでその品質と優秀さに対して与えられた数多くの賞や表彰に由来するものです。
8. Engineer Gregorio G. Sanchez, Jr. – Lactopafi
プロバイオティクスの発明者
背景
Gregorio G. Sanchez, Jr.は専門の土木技師であり、かつては民間の土木建設の仕事に携わっていました。彼はセブ市の州役員会のメンバーを務めました。そこでの彼の懸念事項のひとつは、飼育される豚の栄養状態の悪さでした。
彼は独自に研究を行い、道具として鍋釜と小さなタンクのみを使用して実験を行いました。そして彼の粘り強さによってついに、家畜のなかに繁殖する悪い細菌を殺す食物サプリメントの開発へと漕ぎ着けたのです。彼はこれを「LactoPAFIプロバイオティック・バクテリア」と名付けました。
世界の市場へ!
エンジニア・Sanchez によって開発されたプロバイオティック・バクテリアは後に、身体に良いバクテリアを復元させる能力をもつことが判明し、優れた細菌の菌株として世界的に知られるようになりました。これによって彼はより強い自信をもち、LactoPAFIを重要な成分とした健康ドリンク(LactoVitale)やパーソナルケア製品(石鹸・シャンプー・歯磨き粉)の開発を行いました。
その結果、彼のLactoPAFI製品は現在、ノルウェイ・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・香港・日本、そして米国へと輸出されています。この優秀な製品は、地元でさまざまな賞授与団体から表彰されました。また、米国食品医薬品局はLactoPAFI製品を2005年に承認しました。
9. Ernest L. Cu – SPI Technologies Inc.
フィリピン最大級のBPO社
Ernest L. Cuは、単なるデータ入力サービス会社をフィリピンで最大の外注サービス提供社へと発展させました。
彼の会社の中核となるビジネス・ソースは、もっぱらプロジェクトを発生させる契約です。これには、顧客サービス関係とITサービスが含まれます。
CRM(Customer Relationship Management = 顧客関係管理)サービスは大きな成功を収め、これがテレマーケティングサービスの成長に拍車をかけました。
この需要は1999年に、フィリピン初のコールセンターの設立へとつながりました。このセンターは当初、「e Telecare International」と名付けられました。センターは米国企業の外注へのニーズに応えることに力を注いでいます。後にコールセンター会社は2004年にその社名を「eTelecare Global Soltions」に変更しました。
Cuの会社は、会社の背景であるヒューマンリソースによるサービスに大きな価値をおいていました。したがって彼は、自分にとって最も身近な社会的責任は、6000人を超す従業員とその各々の家族に対して、高い収益をもたらす仕事を提供することであると認識していました。
10. Diosdado Banatao – Computer Chips
会社を数百億でインテルに売却
生い立ち
Diosdado Banataoは、Cagayan Valleyにある高原地方のヒスパニック地区で米農家を営む、ありふれた主婦の間に生まれました。そんな彼がビル・ゲイツのフィリピン人バージョンになることをイメージできた人など、まず皆無でした。
子供時代、彼は裸足で小学校から高校まで通学しました。大学教育を受けることを決意してマニラへ行き、そこで電気工学を学びました。まれに見る優秀な成績を収めて、彼は卒業しました。
学業において非常に優秀な成績を収めたことにより、彼はフィリピン航空のパイロット訓練生としての仕事を得ました。後にこれが、ボーリング社から設計技師として誘われるきっかけとなり、彼は米国へ渡りました。その後、彼はスタンフォード大学で電気工学とコンピューターサイエンスを学び、修士号を取得しました。
会社設立のチャンス
最先端のテクノロジ-会社と仕事をしていたときDiosdado Banataoは、16ピットのマイクロプロセッサを単一チップとして用いた初の計算機の設計をするチャンスを得ました。
1981年に発明者のEthernetが、コンピューターをリンクさせるためのより効率的な方法を模索していました。DiosdadoはSeeq Technologyに選ばれて、その任務を与えられたのです。
このようにしてDiosdado Banataoは、データ・リンク・コントロールとトランシーバーを10-Mbit Ethernet CMOSに提供するために、初の単一チップコントローラーの開発を行いました。
このときDiosdadoは、チップセットを設計するために彼自身の会社を設立するチャンスに恵まれました。ほどなくして彼は500,000ドルの創業資金を集めることができ、これによってMonstroni 1985を設立したのです。
当時は、よりパワフルなパーソナルコンピューターを安価に提供することが急務とされていました。そのためには大幅にコストを下げる必要があり、世界初のシステム・ロジック・チップセットの開発が待ち望まれていたのです。
彼はこれに全力で取り組みました。やがて、彼の会社の決断力と意志の強さは報われました。世界初のシステム・ロジック・チップセットの開発に成功したのです。
そしてさらに彼は、Chips and Technologiesというもう一つの会社を設立しました。いわゆるグラフィックアダプターを強化するためのもう一つのチップセットを、この会社で製作したのです。
フィリピンのビル・ゲイツに!
1年も経たないうちにDiosdadoの会社は、最初の3ヵ月だけで12,000,000ドルの売上高を達成しました。そのため、会社が株式を公開すると、投資者たちから非常に大きな反響が寄せられました。1996年にDiosdadoは、Chips and Technologies社をIntelに430,000,000ドルで売り渡しました。
Diosdao Banataoはその後も投資を続け、投資の達人・資本家の達人としての役割を担い、さまざまな会社の監督と販売を行いました。これらすべての成功を収めつつも、Diosdadoは彼自身のルーツとフィリピン人としての立場を、決して忘れることはありませんでした。
彼の「Banatao Filipino American Fund」は、北カリフォルニア在住のフィリピン人の血筋をもつ学生に対して、エンジニアリングの学位を取得することによって将来を築き上げることを手助けするべく、支援を行っています。Cagayan Valleyにある彼がかつて通った小学校は、その地域で唯一、そして最も近代的なコンピューターシステムを導入した公立学校になっています。
まとめ
これらの10人の偉大なフィリピン人起業家たちは、さまざまな困難を乗り越えた末に成功をつかみ取りました。彼らは企業倫理を高く掲げ、社会的責任を果たすことに価値を見出すことで、成功を収めたのです。
Bright Hubの「成功を収めた起業家たちのインタビューと略歴のコレクション」内でその他のプロフィールをご覧いただければ、上にあげた以外にも感動的なストーリーを紹介しています。
参考資料と画像著作権:
• SM Shoemart – History —
• AsianTaipans-Tony Tan Caktiong —
• Lamoiyan Corp. History –
• Zest-O Corporation History – http://www.zesto.com.ph/zesto_company_history.php
• NBS Store -Our History –
• Mercury Drug Corp.History – http://www.referenceforbusiness.com/history/Lo-Me/Mercury-Drug-Corporation.html
• CDO -History –
• LactoPAFI Story – http://lactopafi.com.ph/index.php?option=com_content&view=article&id=53&Itemid=70
• Engineer Diosdado Banatao, Jr. —